記憶障害をポジティブに捉えるということ

記憶障害 思い出話

こんにちは。吹雪です。

皆さんは、もし自分が記憶障害になったらどう思うと思いますか?

少なくとも、困ったり、それによる弊害に苦しんだりはするだろうな、と推測される方が多いのではないでしょうか。

私も漏れなくその一人で、実際になってしまってから随分後ろ向きだったんですけど、ある人の言葉で前向きに考えられるようになったので、そのことを書こうと思います。

あくまでも私の記憶障害に対してのものです。

障害がその人自身にとって100%害であるとは限らない

最近は、「障害」という字面はよろしくないということで「障がい」が使われることが多いですね。

これ自体については、それに関する様々な問題の上辺をただ撫でただけで、特に意味のないことだな、と思っています。

ただ、「害する」ということについては、記憶障害というものの捉え方が変わったとき、全部が全部悪いことでもないのかな、と思えるようになりました。

日常生活での具体的なこととしては、以前さらっと言われたことをメモせず忘れてしまったりしたときや、言われたのか言われてないのか曖昧な事柄を質問するときの心理的なハードルが低くなりました。

何故って?
記憶障害という事実が最強の免罪符になるからです。(言っちゃった…)

勿論、必要だと思う事柄はメモするのは当然ですし、そもそも自分の曖昧な記憶に頼るような事態にはならないように基本対策はしています。

けれど、どうしても取りこぼしというものは発生するんですよね。
話の流れでさらっと出てきた内容で、メモる必要もなさそうなものをメモし忘れて、そういうものが後からちょっと事実かどうか確認する必要が出てきて困ったこと、私じゃなくてもあると思います。

そういうことを相手に確認しに行くとき、記憶障害の捉え方がネガティブだったときは、物凄く自分を責めていたんです。

物事を忘れるという事象に対する精神的なダメージが大きいんですよね。
普通の人も忘れるという事象が起こるとは思いますが、それに気づいたときの切迫感が桁違いなんです。

普通の人が「あ、忘れちゃった★」ってさらっと流せることを、「今これが記憶から無くなっていることを認識したけれど、これは脳の正常範囲内の忘却なのか、それとも記憶障害故の欠落なのか…」っていちいち考えるんですよ(笑)

我ながら面倒くさいなと思います。
どうせ答えなんて誰も提示できないのに何を詮無きことを…、って思うんですけど。

意味ないことだと分かっていても毎回そういう思考になってしまう私が、それでもまあいいかなって思えるようになったのは、大学を卒業して、会社で働き始めて2年目ぐらいのときでした。

現実主義の私に、その発想はなかった

私がボーカルスクールであるVOATに入学してから3ヶ月ぐらい経った頃、VOATの社員である、ひみさんという方のステップアップMTGというものを受けることになりました。

ひみさんは、VOAT主催のオーディションであるSHOWCASEの取りまとめ?などをされている方で、SHOWCASEの最終選考に残った生徒のメンタルケアなども行っていて、VOAT生なら時間が取れればMTGを受けることができます。

当時はまだ、ひみさんがどういう方なのかも知らないまま、個人レッスンを担当して頂いている先生から「行っておいで」と言われるままにMTGを予約して行ったような気がします。

防音仕様部屋で一対一のMTG

当日は、個人レッスンに使用する部屋に通されて、当時練習している最中の曲を一曲最初に歌うという形でMTGが始まりました。

一曲歌った後、自己紹介から始めて、その後何か悩みはあるの?みたいなことを訊かれた気がします。

私はその時、記憶障害を持っていて、覚えたはずの歌が歌えなくなったりすることを恐れている旨を伝えたような記憶があります。
それは、歌手を目指す者として致命的ではないか、と。

常にある、忘却という恐怖

私が記憶障害を持ったのは、以前書いた記事「抗NMDA受容体脳炎 罹患からの流れ」に記載してるように、大学入学前のことでした。

障害を持った時点で、それまでの記憶にも一部欠落が生じました。
同時に、これから生きていく中での記憶も所々無くなっていく。
そういう診断を受けました。

今日あったことを、明日には忘れているかもしれない。
今起こったことが、一年後の私にとっては起こってないことになっているかもしれない。

そうした漠然とした不安は、実際に大学生活を送っている中で確かに現実のものになっていきました。

約束したはずのことを後日全く覚えていなかったり、数年前に勉強して理解したはずの内容が全く分からなくなっていたり。

卒業論文も、内容が大学で学んだ内容を前提としたものだったら、きっと完成させられなかったと思います。(その卒業論文も優秀な後輩に手伝ってもらったのですがw)

大学生はあくまで学生ですから、そういう不都合が発生してもそこまで大事にならずに済みます。勿論内容にはよりますが、多くは自分に跳ね返ってくるだけです。

けれど、社会に出ればそうはいかない。

実際に会社で働きだして実感したことですが、自分だけで完結する仕事なんてなくて、業務は常に誰かと責任を共有している状態です。

そこには常に他人とのやり取りがあって、それによる業務内容の変化があって…。

そこに、欠けていい情報なんて一つもなくて。

記憶障害は、障害を持ってから時間が経てば経つほど、その弊害が浮き彫りになっていく障害です。

時間が経てば経つほど障害が影響を及ぼす記憶の全体量が増えていき、その分消える記憶の量も増えていきます。

これから先を生きていく中で、私はどうなってしまうのだろう…。

社会人1年目を終え、ちょうどそういう恐怖が拭えずにいた時期でした。

神様がそうしてくれたんじゃない?

実際に、そんなに詳しい説明や悩みは吐露していなかったと思います。

初対面ですし、基本的に自分の悩みは自分の中で結論が出るまで延々と考えるタイプの人間なので。

だから、その時に言われた言葉には本当に驚きました。

病気に罹った影響で記憶障害を持つようになった。
そう言った私に対してひみさんは、

「あなた、過去の出来事とか思い返して延々考え込むタイプじゃない?」

と訊いてきたのです。

いきなり何の話だろう?と面食らいながらもそれを肯定すると、納得したように更にこう言いました。

「じゃあそれは、神様が良くないことを延々と考え込まないようにしてくれたのよ」
「辛いことや悲しいことをずっと覚えていて苦しくならないように、忘れられるようにしてくれたのよ」

その言葉は、正に衝撃でした。

他人からすると中々のポジティブ思考らしい私が、こと記憶障害については良い面など一切思いつかなかったのに。

さらりと告げられたその考え方は、現実主義である私では決してたどり着けないものでした。

この言葉の威力は凄まじく、その後見事に私の涙腺を崩壊させてくれました。

怒られたりするより、慰められたり優しくされると涙が勝手に出てきて止まらなくなるタイプなんです、私。。。

記憶障害も捉え方次第

勿論、本当に辛いことや悲しいことが都合よく記憶から消えているなんてことはなく、小学生のときに受けたイジメや、理不尽だと思ったことも覚えています。

だから、この言葉を信じたわけではありません。

けれど確かに、記憶障害もこういう捉え方があるのだということを知って、心が軽くなったのです。

きっと、悪いことばかりじゃない。

そう思えることは、これからずっとこの障害と付き合っていく私にとって、とても大切なことなんだと思いました。

終わりに

改めて振り返ってみると、確かに病気になってからの入院中の処置の激痛などは障害のおかげ?で今やほとんど記憶にないです。

髄液を採取する際はトラウマになるほどの激痛だとか言いますが、うつ伏せになった記憶は何となくあっても、その後は頭痛が長引いているときの時間まで完璧に記憶が飛んでいます。

ピンポイント忘却バンザイ!←

まあそんな感じで、こんな考え方もあるんだよ~、ってお話でした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

関連記事↓

119番通報するか否かの判断は難しい

吹雪のプロフィール

夢を諦めるかどうかの私なりの決め方