抗NMDA受容体脳炎 罹患からの流れ

抗NMDA受容体脳炎 思い出話

こんにちは。吹雪です。

罹患した抗NMDA受容体脳炎 について、主観ではありますが、病気の発症時のことや、その後の経過を簡単に記載します。

病気のことを書く理由

最初は、このブログで病気の内容や自身の障害などについて言及するつもりはありませんでした。

しかし、丁度自己紹介のページを書いているときに、病気のことを話したことがある方から、「ブログとか書かないの?同じ病気になった人の励ましになると思うよ」と言われました。

同じ病名でも、症状や現状などは人それぞれだと思いますが、私の罹患時の経緯などをここに記載することで、何かの役に立つならと思い、書くことにしました。

病気発症から退院まで

発症前日のお話は「119番通報するか否かの判断は難しい」を御覧ください。

発症時の状態

大学入学式の数日前に発症しました。

最初は風邪のような症状が出て、38度程の熱がありました。

その後、頭痛が酷くなっていき、病院で頭のレントゲンを撮りましたが、その時点では特に異常はありませんでした。

診察を終えて薬を受け取るべく向かった薬局で頭痛に耐えられなくなり、待合スペースのソファで少し横になって目を閉じたところで記憶が途切れています。

次にある記憶は、喉ら辺のすごい痛み?というか衝撃を感じて目を開けたところです。

薬局で記憶が途切れてから、約3ヶ月経っていました。

意識が無かった間のこと

私の意識が無かったときのことなので、母から聴いた話になります。

薬局で意識を失ったあと、すぐに病院に運ばれて改めてレントゲンを撮ったところ、髄膜脳炎になっていたそうです。その後、脳炎にまで進行します。

それから慶應義塾大学病院に入院しますが、天国と地獄について語るといった奇行をしたり(当時「シャーマンキング」という漫画が大好きだったせいか、その漫画に出てくる単語とかも言ってたらしいです。恥ずかしい…)、物凄い痙攣をずっとしていて、着衣式の拘束具をめちゃくちゃ器用に脱ぐという芸当を繰り返したり、呼吸困難になって喉を切開して人工呼吸器を付けることになったり、色々…色々あったそうです。

脳炎になる病気の中には、進行すれば即命に関わるものもあるそうなので、入院してからはとりあえず可能性のある病気に対抗できるありとあらゆる薬を投与していたそうです。同時に、痙攣を抑えるためのありとあらゆる薬も投与していたそうですが、点滴では効かなかったそうです。

先生方は、考えうる様々な検査をして、文献等も徹底的に調べて下さったそうですが、病名が判明するまでに入院してから約1ヶ月かかりました。これでも、早く判った方だと思います。

判明したきっかけは、同じ病気に罹った患者を担当したことがあった北里大学の教授が、たまたま教授回診で私の部屋を訪れたからだそうです。

その教授は、病気の原因が卵巣にある可能性を指摘し、右の卵巣を摘出する手術を行いました。(当時は「卵巣奇形腫による脳炎」という病名でした)その後、病巣を調べたらガンだったことが分かったりしたんですが、この病気でガンになっているのは珍しいみたいなので割愛します。

病巣摘出後、この病気独特の抗体を取り除く処置をして、その後2週間ほど45度程度の高熱を出したあと、私の意識が戻ったそうです。

意識が戻ったときとリハビリ

そんなわけで、意識が戻ったときには全身死後硬直のように硬く、自力では身体がほとんど動かせない状態になっていました。自力で呼吸もできない有様だったので、生まれたばかりの赤ん坊以下の状態だったと思います。

上記で書いた喉ら辺の痛みというのは、痰の吸引を行った際のものだったようで、その後も何回も体験することになります。

意識が戻ってからは、基本的にリハビリと検査の日々だったので、病状が悪化するということはなかったと思います。

リハビリは、飲み込み(嚥下)の訓練、指先を動かすための訓練、歩行や階段の昇降ができるようになるための訓練、滑舌の訓練など、家で生活できるレベルになるために沢山のことをしました。

自分にとってはついこの前まで当たり前に出来ていたことが、突然全く出来なくなったという絶望的な状態でしたが、不思議とネガティブなことは考えてなかったと思います。大学で勉強する気満々だったので、早く大学に行けるようにとしか考えていなかったのかもしれないし、そういうことを考える脳の部分がおかしくなっていたのかもしれませんが。

ただ一度だけ、涙が出てきたことがありました。

それは、病室に精神科の先生が来てくださったときです。

その時も、特に現実逃避しているわけでもなく、ネガティブなことを考えているわけでもなく、特に心は乱れていなかったと思うのですが、自分が受け入れているはずの事実を、先生が独特のテンポで語りかけてきたとき、涙腺が緩むのを止められませんでした。

リハビリ中に涙が出たのは、恐らくこのときだけだったと思います。精神科の先生ってすごいですね。

私自身もリハビリに全身全霊をかけ、それに応えようと先生方もスパルタリハビリを計画実行した結果、目覚めてから約4ヶ月後には高校受験のテキストレベルまで手が出せるくらいには脳も回復した状態で、退院しました。

自宅でのリハビリと大学復学

自宅療養と自主的なリハビリ

家に帰ってきてからは、基本的に大学に通えるように勉強したり、散歩に行ったりしていました。

週一で病院のリハビリテーション科に通い、歩行の訓練やアキレス腱を伸ばす訓練、体力をつけるためのランニングやフィットネスバイクを使ったリハビリ(理学療法)や、空間認知や計算など、頭を使うリハビリ(作業療法)などを行いました。

家に帰ったのが大体9月中旬ぐらいだったのですが、私は4月から大学に通う気満々だったので、家でも筋力と体力をつけようと思い、東急ハンズのダイエットのコーナーで売っていたコアリズムみたいなDVDセット(名前忘れた)を購入し、毎日書かれていたレシピに従って体操していました。

リハビリテーション科でそのレシピを見せると、先生からは「ちょっとこれは激しすぎるのでは…」と言われたのですが、それと勉強以外は特にやることもなかったので、ずっとやっていました。そのおかげで、先生の予想よりも回復が進んだので、無事に4月からの大学復学の許可がおりました。

大学復学

罹患したのが大学入学式直前だったので、入学式からの出席になりました。

大学は片道1時間半かかる場所にあり、罹患してからわずか一年というタイミングでしたが、意地と根性と負けず嫌いな性格が功を奏し、校内でもっとも忙しい学科且つ、その学科の中でも一番忙しい研究室に所属し、卒論も書き、無事留年することなく4年間で卒業することができました。

リハビリテーション科の先生や、大学の保健室の先生としては、最初は週一ぐらいで通ってもらって、8年かけて卒業…と思ってたみたいですが、結局体調不良のとき以外はきちんと毎日通ってました。

今同じことをやれと言われても絶対出来ない(笑)

それぐらい社会復帰に一生懸命だったんだな、と思います。

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就職と夢

大学在学中に障害者手帳を取得し、就職活動をして、唯一内定をいただけた会社に勤めています。

障害者としての採用ではありますが、健常者と同じ仕事を任せていただいています。

現在の障害内容は「吹雪のプロフィール」に記載しています。

そして、就職してから一年後、病気になる前からの夢である歌手になるために、本格的にボーカル教室に通い始めました。

歌は身体が楽器である以上、他の人よりも圧倒的に不利な状態からのリスタートではありますが、なりたいものはなりたいので、日々劣等感を感じながらも努力している最中です。

人は、次の瞬間に死んでいてもおかしくはない。

それを成人になる前に身をもって体感できたことは、良かったと思っています。

まだまだ未熟ではありますが、ボーカル教室管轄サイトとYou Tubeにレコーディングしたデータを載せています。よろしければ、聞いてみてください。

森田 春奈 | VOAT Artist Bank

You Tubeアカウント「ロボット天使

終わりに

後遺症の一つとして記憶障害を持っているので、罹患前や罹患後の一部の記憶が抜けているのですが、(そしてこれからも地味に抜けていく…)大まかにこんな感じで現在にいたります。

この病気に罹った人で、こういう社会復帰の道を辿った人がいるよ~、というお話でした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

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